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(1)

九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

近代日本における中学校教育成立に関する研究 : 中 学校教育の地方的形成と統合

新谷, 恭明

https://doi.org/10.11501/3106933

出版情報:Kyushu University, 1995, 博士(教育学), 論文博士 バージョン:

権利関係:

(2)

償却一一前川町郷私塾教育における「高普通教育」底流ーーー妻郡の塾を事例として||

久留米藩においては最初の藩の学校である講席の講官として上妻都津江村の農民出身の儒者高山畏斎を登用し

ている。また、前節で説明した明善堂助教本荘星川も上妻郡山内村の出身で元来士分ではなかった。彼らがたま

たま学問的な資質が藩に認められたというのではなく、

久留

米藩の場合はいわゆる庶民層の間に広く学問が浸透

していた形跡がある。ここでは上妻都を素材に近世後期の在村的な儒学学習の構造を検証してみたい。

継志堂及び会輔堂の設立と再興

上妻郡ではいくつかの私塾が設立され、郡内の農民層の間で漢学教育が行われていた(別表一の七)。それら

の私塾が形成されていった背景には継志堂の設立が重要な意味を持っていた。すでに述べたことであるが久留米

藩では最初の藩の学校と考えられる講席の教官に高山金次郎(畏斎)という民間の儒者を登用した。この高山金

次郎の私塾を継承するものとして金次郎の弟子たちによって継志堂は設立されたのである。設立の経緯について

は「継志堂由来略記」に左のように記されているごハ十八)。

上妻郡津江村

継志堂

七六

(3)

別表一の七

上妻都の主な私塾

�忌.

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高高 山山 LU 泊I

茂金 泣人 太次 Y欠 郎郎 良日

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古高 賀山 守希

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蔵斎

自市

(4)

大石喜八郎編『教学八女一00年』及び『稿本八女郡史』より

『唱咽・『

別表一の七

上妻都の主な私塾

石考三石E A 32ζ ) 11 AZ3Z

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謀長 西

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自日 !1ß

(5)

修文舘木屋村弘化五年j明治二十五年漢学貌姑射徳令馬渡養拙・広瀬淡窓

大石喜八郎編八女。。年及び稿本八女より

(6)

七七頁 右読書所ハ高山先生(俗名金次郎号畏斎〉講学之跡ニシテ其門入社中追々致世話今以存在有之郷校也先生ハ当村貧民之子幼少ヨリ篤ク学ヲ好ミ農紙漉等之傍読書講学日夜出精追々門人モ附従ヒ宝暦年中大 坂留守氏ヲ師トシ学ヒ業成帰郷之後門人弥相増数十百人近郷ハ不申及鄭国ヨリモ相集リ郷党一統之風俗

モ其徳化ニ信服シ温順ニ相成候由天明三笑卯春被召出御城下へ引越儒官相勤候所無程病気ニテ塑年病死

ナリ初先生御城下へ引移之節家屋敷等モ全ク売携ニ相成葬地モ無之ニ付門人中相議シ花宗川辺之元屋敷

ヲ買返シ遺骸ヲ其地ニ葬リ其側ニ講学之家ヲ取建候也先生一男一女アリ男子ハ茂太郎幼少ニテ迩目相立

不申候付門人中ヨ

リ引受

養育イタシ(古賀要蔵方へ引受育素読等ヲ教フ)高弟本原仲(横溝

)古

賀要蔵(黒木)後藤要助(新庄)三原忠次郎(会)中田餐仲(榎津)牛島精一(後江)本荘清助(山内)

杯カハルく会主ヲ相勤メ社中ノ大家西村牛島樋口等及新荘矢賀部平一中折地太田黒孫七ヲ初メ三瀦両郡

辺之人子弟召連先生存生之時同様ニ不相絶候様有之候其頃天明七丁未之夏仙台儒官志村東蔵先生ヲ聞及

尋来候処残後ニ相成候ヘドモ右高弟等相集リ数月相留置講習等相励ミ堂号ヲモ相願継志堂ト名ゾケ旦其

記文モ今ニ存セリ

金次郎は上妻郡津江村の出身で代々農業を営み、傍ら紙すきをして生計を立てていたという。金次郎は手習い

を学んだ後、

村の

医師である牛島守善に漢学の手ほどきを受け、その後独学で学問を続けていた。そして三十歳

を過ぎて大坂に出て、闇斎学者である留守希斎に入門した。留守希斎のもとでの修行は僅かに百日ばかりであっ

(7)

たが、帰国後は塾を開いていた。そうして天明三年金次郎が五十七歳の時に久留米藩に抜擢登用されたのである。しかし、翌年金次郎は病死することになる宗十九;金次郎は晩婚であったため、その子茂太郎はまだ幼く、金次

郎の遺塾はその弟子たちが交替で会主を務めて維持したとされる。また、

その

名称は仙台の儒官志村東蔵の命名

によるものとされ(七十:金次郎の塾の一定の評判を得ていたものと推測される。

嫡子茂太郎は幼少でったため高弟の古賀要蔵が養育することとした。そうして「茂太郎致成長候ニ付社中ヨ

リ致世話肥後熊本高本敬蔵方ヘ寄塾罷在学業相励候ニ付為御褒美御目録金子頂戴仕候遊学帰郷之後堂主トナリ夫

相替諸生ヲ引合会業相勤居候」(七十二と茂太郎の実力も久留米藩内において評価されるところまできたが、「鉦

程茂太郎致発病(乱心)」(七十三という事態に至ってしまった。そのため「授読会頭等モ出来不申附テハ生計之

術相絶候付社中又々相謀文化十リ右時花井寝役席相定御役方ヘモ相伺井掛別段割賦

六弐銭四貫五百目津江村圧屋清八へ相預ケ其利米年々拾五俵ヅh継志堂ヘ遺シ候且又修理屋根替垣廻リ等ハ忠見

組ヨリ畳替ハ井堰掛ヨリ受持可申約束ニテ極メ書連判ニモ有之其席料ヲ以テ当時茂太郎究難ヲ相救ヒ旦ハ此堂永

相伝へ存在可致之策也」と塾の部を井堰の役人に貸し付けてその席料を茂太郎の生活費とすることと

した。

この

時の定書は左

通り七十

継志堂ハ於郷党格別所以有之家ニ一候処主人高山茂太郎病気ニテ儒業難相勤生計立兼候間不得己社中謀テ此堂永久

不廃タメ当時花宗寝役家借席ニ相定候其格如左

七八

(8)

七九頁 一為借席料毎年拾五表右手当六拾弐文銭四貫五百目井掛中ヨリ相集メ津江村ヘ預ケ置右利銀米捨五表清八井助五郎ヨリ取立年々堂主へ相渡候若全家入用之節ハ右銭返済イタシ元之通役席相止可申事一役席座敷之次之悶畳表替ハ井掛ヨリ受持可申事一屋根及垣廻リ修理ハ忠見組ヨリ受持可申事右之通相定世話人連名加判致置候後年ニ至リ違背有之間敷候以上

文化十三丙子年七月

継志堂主人

高山茂太郎判

世話人

本荘直太郎判

新庄大荘屋

矢賀部字都平判

忠見大荘屋

松延宗兵衛判

(9)

J\

Cコ

折同

太田黒孫左ヱ門判

福島大荘屋

西

斎助判

津ノ江村荘屋

J\

平リ

助五郎

平リ ここ

には世話人として本荘直太郎の名があるが、これは本荘一一郎則ち後の明善堂助教本荘星川のことである。

この頃すでに自ら山内村に川崎塾を開いていた本荘星川であったが、彼が筆頭世話人となっていることは上妻都

内の学問界の指導的立場に星川はいたということである。ともかくこの措置によって茂太郎の当面の生活の保障

はなされたが、継志堂の教育活動は中断せざるをえなくなったと考えてよい。

ところで高山金次郎の弟子の今村直内という人物(旧名三原忠

次郎、

号は竹堂)がいる。今村直内は訳あって

(10)

J\

父母とともに母の実家(上妻都新庄組大圧屋矢賀部氏〉に身を寄せていたが「幼にして頼敏長して高山金二郎に師事し、其高足たり、金二郎残するに臨み、京師に遊ひ、

西依儀兵衛(成斎〉に師事せんことを勧む」

(七十四vとはじめは高山金次郎に学間の手ほどきを受けた。

そして金次郎の勧めで京都の西依成斎(閣斎学)の門

に学ぶことになった。

母の実家である矢賀部氏の当主矢賀部良八もまた高山金次郎の門弟であり、

先の定書に連

名をしている矢賀部字都平と同一人物である。今村直内が業を修めて帰国すると、この矢賀部良八は自宅に私塾

会輔堂を開き、従兄弟今村直内を堂主としたのである。しかし、今村直内は文化二年四十三歳で早世した。

授有年而先生不幸早世無嗣其学徒思慕之修其遺堂以育其寡孤且以為課業之所二十年子今未嘗墜廃」と会輔堂記

〔七十五)に記されているところから今村直内の残後はしばらく会輔堂は開業さ

れなかったのである。上妻都内では

本荘一一郎

の経営する川崎塾のみが学問の命脈を保つことになったのである。

本荘一郎については先にも少し述べたが、後に明善堂助教としてその頂点に立つ本荘星川のことである。彼の 父清助は高山金次郎の門弟の一人であり、金次郎残後に継志堂を創設するに際しでもその発起人に名を連ねてい る。本荘一一郎は十一歳の時に高山茂太郎に従って肥後に赴き多くの学者にあっている。また十九歳の時には今村 直内に従て再び肥後に旅をしている一言うなれば本荘郎は継志堂、会輔堂いずれとも深くかかわりながら学 間的な成長を遂げたといえる。そして昌平実諸生寮に学び、帰国後は上妻の有力な在村学者として活躍していた。

そして文化十四年に山内村に私塾川崎塾を開いたのである毛土Co

これは文化二年に会輔堂が、文化十三年には継志堂が閉鎖されており、この地域の教学を維持しなければなら

(11)

J\

ないとの本荘一郎の使命感から川崎塾を聞いたとも考えられる(あくまで推測でしかないが)

のJ方で本在

一郎は文化十三年一月にその学問的な功績を藩に評価されて浪人籍に入れられた。

さらに文政三年右筆格に抜擢

され明善堂の教官に列せられることとなった。

そしてすでに述べたように天保八年明善堂助教にのぼりつめるこ

なるのである

樺島石梁の筆になるとされる「遊川崎塾記」に「今春我公擢

府学教員賜以禄故事士

人不許回居政府以郎教授日久郷郷来者衆多特命許之於是郎始標縄通籍得往来学中以授経」(とあるよ うに本来ならば本務に専念するために「不許田許」のところを

「特命許之」ということで認められたらしい。

ばらくは「四里の行程、早発夜行、風雨索、署、未だ嘗て一言も労を称せず、常に子弟を誠めて目、仕ヘざれば、

則巳まん、有も仕て而官を議し、禄を諭するは則、君子の道にあらざるな

但己れが翠す所の者、如何と顧み

るのみと、其の門人を待つや、厳にして法あり誇々倦ます、故に門に入者、皆楽みて其の教を受く、前後来り学 ぷ者殆と千人」(七十八)というように川崎塾を主宰しつつ明善堂教官の職も勤めていたのである。しかし、第一に 明善堂奉職後三度の江戸在勤があったが、特に三度目の江戸勤務は四年弱の長期にわたり、このことは「数々江

に役するや、郷党の

衿式する所を失」〔七十vわせることになり川崎塾を維持していくには大きな障碍と

なった。

この三度目の江戸在勤から帰藩した直後に助教に就任することにな

るが、このことによって「久

留米に在るの日多くして、益を請ひ疑を質すの便を得ず、皆以て遺憾とす」円八十)という事態になり、川崎塾の維

持は無理ということになったのである。そこで「一郎旧盟の諸友に謀り、高山金次郎門人同社の塾、継志堂祉の

に、一宇を築っかしめて、復た継志堂と号し、牛島益三を以て堂主として、子弟を教育せしめ、又今村直内の

(12)

遺塾会鞘堂、久しく主無し、仇て門人高橋素平をして、之を司らしむ」円八十二という措置をとった。すなむち、本荘一郎自身が公務上川崎塾を維持できなくなったために、その代替として断絶していた継志堂及び会輔堂を再

建し、自身の弟子をそれぞれの堂主に任命して郡内の教育機能を維持しようとしたのである。牛島益三を継志堂

主に指名したのは本荘一郎が明善堂助教に就任してまもなくの天保九年であったが、これは継志堂の資産の継承

問題が絡んだために手間取り五年後の天保十四(一八四三)年に新たに塾舎を建てて再興したものである。また、

会輔堂については創設者矢賀部良八の跡を襲った矢賀部良平が文化末年に建物は改築したもののそのままになっ

ていた。矢賀部良平も本荘一郎の弟子であり、同門の高橋素平を招鳴して継志堂に続いて弘化元(一八四四)年

に再興したのである。

在村私塾の教育と役割

以上、見てきたように上妻郡では高山金次郎が閤斎学を教授したところに端を発して広く学問が普及していた。

そして本荘一郎はそれらの私塾を再興することで上妻郡内の教学の組織化をはかったといえよう。それはいずれ

も血縁関係によらない堂主の指名という形をとったことからわかるように単なる私有財産としての私塾の再興、

継承ではなく多分に公共性を意識した組織化であった。本荘一郎がそうした教学の組織化をはかったのは彼が上

妻都内における学問の果たす役割に意義を見い出していたからであろう。

高山金次郎以来の上妻郡の弘塾における漢学教育の役割について検討してみたい。

(13)

j\

すでに述べたように高山金次郎は享保十二三七二七〉年の生まれで幼少より村の医師牛島守善に句読と学問

の手ほどきを受け、その後は生業である紙すきの傍ら独学で学問を続けたという。宝暦年間三十歳を過ぎて京都の留守希斎に学んだ。留守希斎に入門した期聞は百有余日というから彼の学聞は事実上独学で修めたものといえ

の家

て上 妻郡

の有に学聞えた。その期間はほぼ宝麿八(一七五八)

歳より天明(七八)十四年間と地元では考えられている)O

先述のように金次郎残後継志堂は設立された。その史料の一部を再掲すると「社中ノ大家西村牛島樋口等及新

荘矢賀部平一中折地太田黒孫七ヲ初メ三瀦両郡辺之人子弟召連先生存生之時同様ニ不相絶候様有之候」とある。

「社中の大家」として挙げられている西村は黒木町(本分組)の西村良平、牛島は津江村(忠見組)の牛島唯八、

樋口は酒井田村(福島組)の樋口次八を指している(八十三}O西村良平は代々「黒木町の豪家」であり、父仁兵衛

は開墾の功績によって士籍に列せられたとされ、牛島唯八は忠見組大圧屋牛島源八の嫡子である。樋口次八は合

原窓南門下の在村学者熊本新平の二男で酒井田村の樋口氏の義子となった。義父樋口源秀は三原郡井上組の大庄

屋に 抜擢された人物

である

(八十

四)

「新荘矢賀部平一中折地太田黒孫七」とはいずれも新庄組大庄屋及び

中折地組大圧屋である。当時の上妻下妻郡内は川瀬組(大圧屋竹重氏)、本分組(同松浦氏)、忠見組(同牛

氏)、福島組(同西村氏)、江口組(向田中氏)

圧組(同矢賀部氏)、中折地組(同太田黒氏)の七大庄屋

支配 あっ

(

八十

)それらの大圧屋のうち三氏がかかわっていることと別に大庄屋ならずとも相応の有力

者が支援していることに注目したい。彼らがかかわることによって継志堂は上妻・下妻両郡の全域に影響力を持

(14)

ったと言えよう。ちなみに金次郎の娘は本分組大庄屋松浦嘉右衛門に凶嫁いでいるR十50大庄屋である太田黒孫七はその弟乙三郎と息子を高山金次郎に学ばせている。乙三郎は後に古賀要蔵と改名し

たが、高山金次郎の高弟として知られ、金次郎残後にはその遺児茂太郎の養育を担当した人物である宗十七vo

た、第二子の佐野養次郎も金次郎のもとで学び、後に京都の西依成斎の門に入って学問を志したが寛政十二年三

十四歳で残した。第六子は溝上是平で彼は今村直内に学んでいる。

同じく大庄屋矢賀部平一はその嗣子良八の教育を金次郎に託した。良八は高山金次郎残後はその弟子古賀要蔵

に学んでいる。若くして大庄屋職を継ぎ、文化十一年には福島組大圧屋をも兼務している。その嗣子良平及び良

平の嗣子清吾は本荘一一郎に学んでいる。また従兄弟三原忠次郎は同じく高山金次郎に学び、前述のように良八の

設立し堂の堂主となってい

矢賀部良八が会輔堂を設立したことについてその墓誌に「良八治部以教為本、常招郷先生務下吏為立条約、

誘郷里、皆本人倫、専礼儀、農際則集百姓、丁寧論議、以是吏廉而動、俗厚而礼行、官美其能、特賜白金賞之

としるされているところから見ると第一に村役人層の子弟の教育すなわち村の支配層の再生産と一般の人民の

教化にあったと言うことができる。別表一の八は牛島益三の門下

すなわち後期継志堂の塾生についてその身

分別に整理したものである。これを見ると「浪人及び浪人格」

「大庄屋」

圧屋」

「惣代等」といった村の支配

層及び「医師・神宮」の出自のものが過半を占めている

れらを出自とする者を仮に「指導的層」とし、「肩

書なし」に属する者を「非指導層」とすると、入門順位が早い

者に

「指導層」が多いことがわかる。前半一co

八五

(15)

別表1の8 継志堂門人(牛島益三門下)身分別一覧

i 全 体 1 1 0 o I

;

I

身 分

|人 数 1

%

11身 分 |

人 数

|

%寸

(

I

浪人及び浪人格I 1 5

I

6.6

I I

浪人及び浪人格

'- _

1 2

fl2 什 1

� I 大庄屋

5

1

2.2

1 1 大庄屋 313什 (

i I 庄屋 1 4

9

1

21. 6

1 1 圧屋 1 30 1 � 1 1

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総代等

1

9

1

4.0

1 1総代等 1

8

l u I ì

� 1 医師・神宮 1 3

6

1

15.9

1 1 医師・神宮 1 24 1 24 � 1 i |

肩書なし

1

1 0 7

1

47.1

1 1肩書なし 1

2 2

1 22.0 1 1

! Iその他 I

6

I

2.6

I I

その他

1

1

1

1.

0 I ì

I

1

2 2 7

1

100.0

1 1合

1

1 0 0

1 100. 0 l j

※酒田湖仙『継志堂物語』所載の門生一覧を素材として用いた。当該史料li 化より明治二年頃までの門生Jとされており、個々の入門年月日などは記され いない。全部で227名の名前があり、それぞれ「津江村庄屋伴」などと針 ており、その書き込みを整理して分類した。r1 1 0 0 J r 1 0 1 -227 は記載順の通し番号であり、入門順位を示す。r肩書なし」というのはただ 塚村」とか「森文太停」などと身分をあらわす「肩書」を記さないものである 但しそれは単に肩書を書いていないというだけであって、それらがすべて中 の農民であったということはできない。それ故に肩書が書かれていなくても身 のはっきりしているもの(r川口省斎伴」など)はその身分に分類した。

(16)

名についてみるならば八割近くがそうした「指導層」への所属が明確になっている。すなわち、継志堂が再興し た頃は原則的に郡内の支配層や知識人の再生産教育機関として位置づいていたと言えよう。

本荘二郎が敢えて継

志堂、

会輔堂を再興したのはそうした「指導層」の固定化をもくろんだからであったと考えられる。

ところで会輔堂の最初の堂主であっ

た今村直内の学問は藩内で高く評価され、

後に士籍に入れられている。

の時「久留米藩主、士籍に徴す、則ち臼く、

徒士は儒家を待つの礼にあらすと、

喜色なし」

(八十八)

と伝

えられているが、

そのことは逆説的に言って学聞をするこ

とによって

士籍に入れられるということが、

ありうる

こととして意識化されていたことを推測させる。

そしてそのことが学問を志すも

のにと

って一種の励みになって

いたのかもしれない。

とはいえ直内の異母弟である三原東平(母は宮原氏)も浪人

身分

とな

り、明善堂句読方を

めていた八十九)し、

その今村直内には男子はなかったが、

外孫の古松簡二は明善堂がはじめて居寮生制度を設 けたときに唯一無格身分から抜擢されて居寮生に採用されている。

また、

もう一人の娘は久留米藩士であり儒者 である井上彦市に嫁いでいる完工。

結果的には学問を通じての藩士、

浪人そして上層農民間で縁戚関係が築かれ

ていたのである。

別表一の九は『稿本八女郡史』中に見られる人物のうちいわゆる庶民身分(浪人格を含む)か

藩に抜擢された人物を

リストアップしたもであるは塾生の中のごく

部でしかないが、

学問を修める

ということが身分社会である近世社会におい

て社会移動を促す要素のひとつとして機能したといえよう。

再び別表一の八に戻ってみよう。

この門人リストの後半の一二七名では「指導層」はほぼ三C%に減少するの に対して「肩書なし」

は七O%に達するところまで増えて

くる。

らに五O名きざみで見ると四C↓三七↓二二

-LL\ /

(17)

別表一の九学問と藩への取立

良日

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良日

(18)

『司司町「

別表の九学問と柏崎への取立

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良日

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安見

(19)

淵上郁太郎一八三七一八六七村医家中小性格牛島益石田謙益

(20)

八七頁

ー『・r

「肩書なし」の人物が「非指導層」に

属するとは必ずしも断定できないからこの数量的変化をそのまま正確な数値と断定することはできないが、おお ↓一Oと「指導層」の減少が時系列と比例していることがわかる。但し、

よその傾向として門生は「指導層」から「非指導層」へと拡張していったことは説明できる。このことは農村部

においてもいわゆる学問をするということに対する要求が徐々に拡大していたことを意味していると言えよう。

(21)

!\

!\

信知一二信仰外国モデルの中学校観 日本の近代学校教育制度は初等・中等・高等の階梯をもって構想された。

この構想は従前の日本の学校観には なかった考え方であった。神辺靖光氏によれば「日本に中学と称する学校が現われるのは明治二年から」であり、

「中学を呼称する学校はこれ以前には見当たらない」

九十二として最初に中学を名乗った学校として紀伊新宮藩、

岩代平藩、越前福井藩における中学校の発足と京都府における中学構想をあげている。若干の中学という言葉に

言及した書物はあるもののそれを学校観に取り込むことは日本では行われなかったといってよい。神辺靖光氏は

その理由を「複雑な幕藩体制が園都や州郡を行政区域としなかったからである」完)としている。

すなわち、学校段階のアiティキュレ!ションが未確立であり、それに加えて後に中等教育として制度的に位

置づいていく教育階梯は新たな制度的理念が移入されることで出発したと言えよう。その新たな制度的理念とは

外国の教育事情の紹介と外国学生の翻訳によって得られたものである。そうしたなかから日本の近代学校教育制

度の枠組みは構想されていった。特に中学というそれまで日本に中学という学校がつくられなかったのは日本の

近代高等普通教育は制度的には西洋の学制をモデルとして構築されたということができる。

そうした西洋モデルとして『仏国学制』及び『和蘭学制』について検討してみよう。

すで

にこれらの西洋モデ

ルについてはかなり検討もなされている。特に日本の中等教育成立史の文脈に位置づけたものとして谷口琢男

『日本中等教育改革史研究序説』及び神辺靖光『日本における中学校形成史の研究〔明治初期編〕』がこれら西

(22)

洋学制の日本への紹介について言及している。

谷口氏は『和蘭学制』『仏国学制』及び「ホフマン建議」につ

いて検討して学制の中学規定との関連について考察し、

神辺氏は『和蘭学制』を外国学制の代表として明治維新

期の学制案の一つとして検討している。いずれにせよ、

日本の中学校教育の制度的な枠組みはこれら外国学制の 紹介を通じて構想されたと見てよい。

明治六年、

佐沢太郎訳・河津祐之閲の『仏国学制』の初篇及び第二篇が文部省から刊行され

た。この『仏国学

制』が学制制定に際して参照されたといわれている

後宗臣氏は『仏国学制』と明治五年に制定された日本の 学制とを比較して類似点をあげ「この初篇及び第二篇の穣訳は少くとも明治五年或はそれ以前に出来てゐて、

れが 明治五年の学制編成のために参考として用ひ

られたであらう

と言ふこと

は推測に難くない」と見ており、

「日本最初の学制の基礎をなしたと

ふ意味に於て特に意すべき書である」と評している()

た、

の『仏国学制』はそこに引用されている法令等の日付から判断してフランス革命(一七八九年)から一八四O年 頃までのフランスの学校制度を訳出したものであるから、必ずしも当時のフランスの学制を正確に紹介したもの

とは言えない。

田中不二麻呂による『理事功程』に掲載されている仏国の学

制紹介の方が同時代的ではある。

かし、ここでは学制期の中学校観の枠組みを構築する過程での存在価値という点で『仏国学制』を検討してみよ

, っ この初篇巻ノ一は小学校について、初篇巻ノ二は師範学校について記述され、第二篇が中学校についての叙述 となっている。その第二篇ではまず「中学線論」として左のように書かれている。

(23)

各州ノ生徒抜群ノ

者ハ、

政府ノ「コレiジ」

一於テ謝金ヲ納メズシテ教ヲ受ケシメ、

或ハ「コレ!

中学線論

男女共、

年齢ノ粉々長ゼル者ヲ、

教育スルガ為ニ設クル者ヲ線称シテ、

中学ト謂フ。

中学モ亦一定ノ等級アリ。

男子ノ為メニ設クル者ヲ、

大別シテ二種ト為ス。

レ!」ノ通常ノ科

ヲ授クル者、

[訳者日小学ノ科ノ棺高等ノ者〕ト専門科ノ基

礎ト為

ルベ キ科[訳者日大学ニ入ルノ端緒 ヲ関ク者]ヲ教フル者、

是ナリ。

当今ノ法ニ於テハ、

中学校二様ニシテ入寮ヲ許ス者アリ。

許サヨル者アリ。

又大別シテ二種トス。

ク「コレ!ジ」日ク「エンスチチュ!シオン」及ピ

パンシオン」

第一条

一区ヨリ設立スルト、

私ニ設立スルトヲ論ゼズ、

線テ混雑旬語学、仏国語学、地理学ノ初歩、史学ノ初歩、

数学初歩ヲ教フル者ハ皆中学校ト見倣スベシ。

一政府ハ、

中学校ヲ鼓舞シ、

教育ノ方法ヨロシキヲ得ル者アレパ、

之ヲ賞ス。

其方法或ハ地所ヲ賜ヒ、

L 入学

許可ヲ得タル、

生徒ノ数最モ多キ中学校ノ

授ニ褒

ヲ与フルコトアリ。

シ五十ヲ以

テ限リトス。

[共和政治第十年八月十一日ノ法第六条及ピ第七条〕

o

(24)

右に見たように『仏国学制』における中学校についての定義はやや混乱した観を免れない。

冒頭において「男 一定の年齢段階に達

女共、

年齢ノ粉々長ゼル者ヲ、

教育スルガ為ニ設クル者ヲ総称シテ、

中学ト謂フ」とあり、

そし て「『コレ!ジ』ノ通常ノ科」を「小学ノ科ノ稲々 した子どもを教育する学校を総称して中学としている。

高等ノ者」と規定し、

小学校からの連続性を示唆しているが、

その小学については第一篇に「小学校ハ教育ノ初

級ニシテ、

諸人ノ必ズ学パザルベカラザル普通ノ

科ヲ教フ

ル処ナリ」とされており、

これより稲高等なもの、

まり「高

普通教育」的な教育が

常の中学の教育内容とされているのである。

体的な内容としては「羅旬語

教科を示している。

国語学、地理学ノ

初歩、

初歩ヲ教フル者

ト見ス」という文るような

なお『仏国学制

第二綱

第三綱

第四綱

第二篇』の以下の構成は左のようになっている。

小児の「エンスチチュシオン」及ピ「パンシオン」 コレ!ジ

寺院中学線論

女学校

てコ

(25)

そのうちコ

レ!ジについては左のように記されている。

O第一綱コレ!ジ

「コレ!ジ」ニ三種アリ。日ク政府ノ「コレ!ジ」、日ク区ノ「コレ!ジ」。臼ク私ニ設立セル教科全 備ノ「コレ!ジ」。

O第一目政府ノ

「コレ1tJリJ

政府ノ「コレ!ジ」

積金ヲ以入賞ノ部ヲ助ケ、政府ノ「ユニヴェルシテ!」ヨリ直ニ

之ヲ管ス。

第二条

政府ノ「コレ!ジ」ノ教科、左ノ如シ。

一古語〔訳者云希験、

羅旬語等ヲイフ也古キ仏語ヲイブニハ非ズ〕

レトリック

一ロヂク

一修身学一史学

一物理学ノ大意

(26)

一数学ノ大意門同上第十条〕

O第

「コレ!ジ」

「コレiジ」とは、

「コレ!ジ」所在ノ区ヨリ入費ヲ助ケ、

区ノ官員与リテ、

学校事務ヲ処分ス

ル者ヲ謂フ。

ノ会計ハ、「コレ!ジ」

其区ニテ之ヲ理ムルコトアリ。

或ハ繁方熟談ノ上、

之ヲ

「コレlジ」長

一委任スルコトアリ。

第十条

一区ノ「コレiジ」ヲ分テ二等トス。

[千八百三十九年一月二十九日ノ王命第一条〕

第十一条

一区ノ一等「コレ!ジ

ノ法全ク政府ノ

「コレiジ」ト同キモノヲ云。[同上第条]

第十二条

一区ノ二等「コレ!ジ」

トハ、只政府ノ「コレiジ」ノ教科ノ部分ノ

ヲ教フルモノニシテ、

教則線

テ政府ノ

「コレiジ

ノ規則ニ符号セザルベカラズ。

[同上第三条]

参照

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